Created: Friday, 22 February 2019 07:48 | Rate this article
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| Category: Reviews
Kimi Oki, review of アナザー・マルクス, Dokushojin, 22 February 2019.
 
文献学的手法に基づくマルクス伝
晩年のマルクスに比重が置かれる

イタリア出身のマルクス研究者の手によるマルクスの伝記である。

マルクスについてはこれまでも数多くの伝記が書かれてきた。古典的なものとしては、E・H・カーの『カール・マルクス』、アイザイア・バーリンの『カール・マルクス』、D・マクレランの『マルクス伝』があるし、ここ最近に限っても、ジャック・アタリの『世界精神マルクス』やジョナサン・スパーバーの『マルクス』などが相次いで出版されている。これらの類書と比べた場合、本書は、最新のMEGA研究に基づいていること、晩年に比重が置かれていること、この二点に特徴がある。

MEGA(『マルクス=エンゲルス全集(ゲザムト・アオスガーベ)』の頭文字を取った略称)とは、マルクスとエンゲルスの著作や往復書簡のみならず、現存する草稿やノートなども含め、あらゆる文書を収録することを目指したプロジェクトであり、一九七五年に刊行が始まり、現在も進行中である(因みに、大月書店から翻訳が出ている『マルクス=エンゲルス全集』は、正確には『全集』ではなく、『著作集(ヴェルケ)』である)。MEGAの編集にも携わってきた著者は、とくに、マルクスの作成した膨大な抜粋ノートに注目する。マルクスは、若い頃から、読書の際に文章を書き写し、その傍らに注釈を付ける習慣があった。このノートを丹念に調べながら、著者は、マルクスの思想の変遷を辿ってゆく。例えば、一八四四年に書かれた『経済学・哲学草稿』と一八四五-四六年に書かれた『ドイツ・イデオロギー』の間には、理論上の断絶があるという主張がアルチュセールによって(日本では廣松渉によって)なされてきたが、著者は、MEGAで新たに公表されたノート類を駆使して、両者の間の欠落を埋め、連続的な道筋を描き出そうとする。

また、これまでの伝記では、一八六七年の『資本論』第一巻の出版がクライマックスに位置づけられ、その後の数十年は言わば余生として簡単に済まされることが多かった。著者は、この晩年の叙述に実に半分近くもの紙幅を割き、『資本論』第一巻刊行後もマルクスの思想が不断に変化し続けたことを書簡等を援用して跡づける。そして、それによって、最晩年の到達点が、よく知られたマルクス像とは異なるものであることを示そうとする。例えば、マルクスは土台としての経済が歴史を動かすという唯物史観を説いたと一般に受け止められているが、著者は、人類学の最先端の知見に触れたことによって、晩年には複合的で柔軟な歴史観をもつようになったと述べる。また、革命の見通しについても、ロシアの農村共同体の研究を通じて、ヨーロッパ以外の場所では、資本主義を経由することなく共産主義に至る道がありうると考えるようになったという。こうした解釈が(訳書のポップな装丁に反して)手堅い文献学的手法に基づいて展開されてゆく。

本書の題名には、旧来の理解とは異なる新たなマルクス像を提示するという意図が込められているが、その際、「アザー」ではなく「アナザー」という形容詞を使っているところに文献学者としての著者の矜持が現れている。そこには、厳密な文献学的考証によって、幾多の誤ったマルクスとは違う、一箇の、真のマルクスを明らかにするという自負が垣間見える。しかし、文献学的に妥当な手続きを踏んだとしても、それによって示された思想が資本主義を根底から批判しうる強度をもっていなければ理論的には意味がない。文献学的な瑕疵があるにせよ、アルチュセールがマルクスから引き出し、発展させた哲学には、そうした強度があった。逆に、最新のMEGA研究を用いて示された「アナザー・マルクス」、青年期の疎外論的な枠組みをマルクスは終生手放さなかったとか、晩年のマルクスが共同体に共産主義の可能性を見出したといったマルクス像には、どこか既視感を覚え、残念ながら評者はあまり興味をもてなかった