さて、本書をどのように捉えるべきだろうか。
最新の研究に裏打ちされた文献学の研究書か、あるいは「人間マルクス」を描き出す人物伝か、はたまた社会運動や労働運動に従事する者たちを鼓舞する運動書か。どれかひとつに絞ることは難しい。本書にはこれらすべての要素が織り込まれているのだ。
とはいえ、著述方法のみ見れば本書はマルクスの青年期からその最後の瞬間までを追う伝記といえる。注目すべきは、本書がマルクスの晩年の経験と思想的飛躍をより詳細に描きだしている点である。それを可能にしたのは、マルクス=エンゲルスの著作、草稿、書簡、メモに至るまでを掘り起こし分析するMEGA (Marx-Engels-Gesamtausgabe)研究の進展であろう。
弾圧と貧困、左翼内での対立や誤解、そして再発する重病の中、それでもマルクスは世界中の活動家、ジャーナリスト、思想家と絶え間なく交流し、自らの思想を更新し続けた。例えば、ロシア、ナロードニキ運動の活動家との往復書簡において、マルクスは共産制社会への道筋がただひとつではなく、多様な軌道を描く可能性をはっきりと示し、教条主義的で図式的なマルクス受容を徹底的に峻拒する姿勢を示した。さらには、最晩年のアルジェリアへの旅 (最初で最後のヨーロッパ外への旅)の中で、彼は「〈ムスリム社会における〉国家の存在感のなさ」を実感し、植民地主義への批判的思考を深めたのであった。
哲学者、経済学者、政治運動家、あるいは病人、父や祖父としてのマルクスを、その多面性を失わず、それでいてそれらを一つの線で結ぶようにして描く点に本書のおもしろさはある。『ヘーゲル国法論』 から「経済学批判要綱』、『資本論』にいたるまで、彼は徹底して学者としての立場を貫いた一方で、インターナショナルの創立と解散に決定的な役割を果たした重要な活動家でもあった。労働者の置かれた現実に依拠して未来の共産主義社会とそれに向けた道筋を描き出す彼の理論と思想は、プルードンやバクーニンらと真っ向から対立し、マルクスは彼らに対して烈火のごとく批判を浴びせ続けた。だが、これも彼の一面にすぎない。極貧と過労によって彼はほとんど常に何らかの病を抱え、このような状況では執筆などできないと何度も弱音を漏らし、その度にエンゲルスに励まされた。また、孫への溺愛ぶりは闘士マルクスのイメージからおおよそかけ離れたものであった。しかし、そのどれもがマルクスであり、これまで様々に解釈されてきたこの「巨大な天才的な人物」(エンゲルス)をこれまでとは異なる、ひとつの「アナザー・マルクス」として著者はまとめあげる。
こうした綜合性の一方で、本書の各章における掘り下げの甘さには批判が向けられるかもしれない。しかし、おそらく著者にとってはこの批判は織り込み済みだろう。一読すれば本書が研究者だけではなく、幅広く一般読者をも想定して書かれていることがわかる。新自由主義的グローバリゼーションの進行とそれに連なる世界的な経済危機は、各国における労働者の状況を新たな局面へと導いた。労働者の苦しみと怒りを権威主義と排外主主義によって回収しようという流れさえあるこの時代に、幅広い読者に向けて綜合的なマルクス理解を促す本書はきわめて重要な一冊だ。そして、それはまた、理論と実践を行き来したマルクスの姿勢を著者自身が引き継ごうという意思表示にも見える。
Marcello
Musto