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Satoru Kikuchi, Political economy quarterly

『万国の労働者,団結せよ!――マルクスと第一インターナショナルの闘い』マルチェロ・ムスト編著,結城剛志監訳,柏崎正憲・塩見由梨・𠮷村信之訳,2022年,大月書店

菊地賢(立教大学)

本書の内容
本書は近年のマルクス・リバイバルに多大な貢献を果たしているマルチェロ・ムスト氏によって編まれた国際労働者協会(第1インターナショナル:以下「IWA」と略記)に関する資料集の翻訳である。邦語で読めるムスト氏の文献としてはマルクスの伝記『アナザー・マルクス』(江原慶・結城剛志訳,2018年,堀之内出版)がある。この著作ではマルクスの研究や活動のみならずその時々の体調など細部にわたる情報をくみ取りながらも,手際よくまとめたムスト氏の手腕が光っていた。こうしたムスト氏の手腕は,人物や派閥の特徴をうかがえる適切な資料を選び,編集するという本書のような資料集にも存分に生かされている。
既訳があるものも含まれているが,本書に収録されている80点のうち49点が初めての邦訳となっている(xvii)。また,原文がフランス語のものについては,英語からの重訳ではなくフランス語から直接翻訳がなされている。IWA関する資料集としては本邦初のものであり,その意義は極めて大きい。今後IWAについて触れる際の必須文献と位置付けられるものだろう。この資料集の編集上の方針としては,「インターナショナルの文書の利用可能な版をもとにして,政治的・理論的論争の注目すべき論点を際立たせること」が意識され,新聞や手紙の抜粋などを除外したインターナショナルの公式文章のみが対象とされている(xxiii)。
本書はムスト氏による「序論」に続いて,資料が13のテーマに分けられて収録されている。このような収録方法は,「政治的・理論的論争の注目すべき論点を際立たせること」という編集方針が大きく反映された本書の大きな特徴である。IWAに精通していない読者からすれば,多種多様な人物や派閥が登場するIWA史を辿るだけでも大きな苦労を伴うものであり,とりわけこうした「資料集」は忌避される傾向があるように思われる。しかしテーマ別に編集されていることにより,読者は初めから通読せずとも自分が興味関心を抱いているテーマから「つまみ食い」的に読むことができる。この意味で,本書はIWAを研究する専門家のみならず,幅広い層に対して開かれた資料集と言えるだろう。
さらに「序論」では100頁ほどでIWAの通史が描かれており,この点も,IWAに馴染みのない読者に対して親切な構成となっている [1]。「序論」では通史を描くうえでの主要な段階が二つの観点から設定されている。第一のものが組織上の観点からであり,「(1)インターナショナルの誕生(1864-1866年),創立から第一回大会(ジュネーブ,1866年)まで。(2)拡大期(1866-1870年)。(3)革命の高揚期とパリ・コミューン(1871-1872年)後の弾圧の時期。(4)分裂と危機の時期(1872-1877年)」(16頁)とされる。第二のものが理論的発展の観点からであり,「(1)インターナショナルを構成するさまざまな分子の間での初期の闘争と,インターナショナルの基礎固めの時期(1864-1865年)。(2)集産主義者と相互主義者の間の主導権争いの時期(1866-1869年)。(3)中央集権主義者と自治主義者との間の衝突(1870-1877年)」(16頁)とされる。基本的には党派間の争いとして叙述が進められているものの,1872年のハーグ大会以降のIWAの衰退について触れる際には,その決定的な理由をマルクスとバクーニンの対立に求めるのではなく,当時の世界の変化がインターナショナルを時代遅れにしたとしている(72頁)。
ムスト氏が描く通史の特徴としてまずあげられるのは,ソヴィエトの正統派に対する批判である。ただしその際,具体名などはあげられず,またその内容についても明確な概念規定がなされているわけではないので,この批判が成功しているか否かを判断するのは難しい。所々でなされている批判点としてあげられるのは,マルクスのインターナショナルでの役割は,すでに完成されていた政治理論を歴史の段階に応じて機械的に適用していったというソヴィエト正統派の見方に対して,IWA内での議論を通じてマルクスは自身の理論を発展させ,ときには修正することもあったという点である(8頁)。しかし具体的なものがあげられていないため,その内実をうまくくみ取ることができなかった。
さらにマルクス派とそれ以外の派閥との対立を描く際に見られる特徴が,政治権力の獲得,政治闘争そして政党の意義の強調である(56,64,66,68頁)。こうした政治闘争に対して相互主義者や自治主義者たちの棄権主義という構造が描かれている。トーンとしては相互主義者に対してより否定的な描き方がなされている。ムスト氏曰く,「相互主義者は事実上すべての政治活動を棄権して,初期のインターナショナルのお荷物になっていた」(78頁)。これに対して,ギヨームやバクーニンら自治主義者は「消極政治」をかかげ,「インターナショナルの革命的な構成要素」であったことが強調される(78頁)。
このように政治闘争を中心に対立点を設定するムスト氏の見方は,マルクスがIWAを去ったハーグ大会以降の描き方にも見られる。ハーグ大会以降,IWAは総評議会の政治的指導の下で多数派を形成した中央集権主義者と,支部の意思決定の絶対的な自律性を認めていた少数派の自治主義者(あるいは連合主義者)に分裂した。そして規模としては縮小しつつも,自治主義者たちがスペインやイタリアなどに勢力を広げていった。ムスト氏はこのように総評議会に対する急進的な反対が広まった経緯の原因に,1871年ロンドン協議会でなされた決議,すなわちインターナショナルを政治的に統合された組織にするために,各国に政党に相当するものを設立し,総評議会への集権化が強行されたことにあるとする(91頁)。
IWAの歴史を振り返ったうえで,ムスト氏がIWAの意義として打ち出すのは,「労働の解放が一国の内部で勝ち取られるものではなく,むしろグローバルな目標であることを労働者に理解させることに役立った」(98頁)ということ,すなわち国際主義の重要性である。それに加えて,ムスト氏は,エコロジー,貧富の格差,女性の抑圧,戦争,人種差別と排他的な愛国主義といった諸問題に直面する現代の労働運動に対して,インターナショナルがもつ「組織の多様性と,目的における急進主義」という特徴に基づいた組織再編が急務であることを訴える(98-99頁)。
このようなIWAの意義を踏まえながら,ムスト氏は13のテーマに分けて資料の編集を行っている。第1部「創立宣言」にはマルクスによるIWAの創立宣言が収録されている。第2部「政治綱領」には同じくマルクスによるジュネーヴ大会の決議とブリュッセル大会の決議が収録されている。これらの宣言や決議では,労働時間の削減や児童労働の問題,協同組合,そして戦争と常備軍に関して言及が行われており,IWAの基本的姿勢を見ることができる。
第3部「労働」では機械が労働者にもたらす影響に関する諸派の報告および声明が収録されている。資本家の下にある機械を労働者たちの下に置く,という路線に関しては諸派においても概ね共通しているように思われるが,その際,相互信用金庫の役割を強調する一派もいるなどプルードン主義の特徴もうかがうことができる。また,この部では女性の賃労働を巡る問題についての報告も収録されている。当時,ベルギー支部の多数派の主張は,女性の解放も働く男性の解放を通じてのみ達成されるのであり,女性を家庭に戻るように呼びかけるような保守的なものであったとされる(144頁注11)。こうした中,女性の独立やIWAにおける男性中心主義を糾弾する資料を掘り起こし,少数派の主張に光を当てた点にムスト氏による編集の特徴が見て取れる。
第4部「労働組合とストライキ」では,労働組合の位置づけを巡る諸派の見解の相違を見ることができる。この部には,マルクスが『賃金,価格,利潤』において賃金の平等ではなく賃労働制の廃止を求めた箇所が収録されている。この主張そのものはオーウェン主義者のジョン・ウェストンに対して行われたものであるが,この部に収録されているド・パープの報告も合わせて読むと,賃金の平等を求める主張がIWA内で一定程度広がりをもっていたことを見ることができる。
第5部「協同組合運動と信用」には,主に相互主義者たちによる無償信用論や,それに基づいた協同組合論,アソシエーション論が収録されている。彼らの主張からうかがえるのは,協同組合として目指されるべきなのは生産者協同組合ではなく,消費者協同組合であるということだ。前者のように利潤の獲得を行うのではなく,商品の原価での交換や無償信用による利子の廃止などを目指すべきとされる。第6部「相続について」には,相続権を巡るマルクスとバクーニンの報告が収録されている。相続権の廃止を唱えるバクーニンに対して,マルクスは問題の本質はそこにではなく,相続権を法的帰結として生み出すところの社会の既存の経済的組織にあるとする。
第7部「集団的所有と国家」には土地の集団的所有や国家の廃絶に関する報告が収められている。この中で独特の色彩を放っているのが,ド・パープのパンフレットや講演である。彼は国家の廃絶を唱えるアナーキストたちの理論において,治安,民事,公共施設の維持や水道の整備といった公共サービスに関して論じられていないことを糾弾する。未来社会においては多くの新しい欲求が生まれ,こうした「国家」の行政機能は拡大していくと彼は論じる。そのうえで彼は単に国家の廃絶を追求するのみならず,コミューン同士が連盟を組織し委員を選出することを通じて,こうした国家の機能を再構築することを主張する。ド・パープは,IWA内でマルクスに次ぐ理論家と位置付けられている。そうした彼の理論の一端がうかがえる点は,本書の大きな貢献と言えるだろう。
第8部「教育」では教育の内容ではなく,公教育のあり方や無償教育の必要性について述べられた報告が収められている。第9部「パリ・コミューン」には,マルクスの『フランスの内乱』の第3部および第4部からの抜粋が収められている。第10部「国際主義と反戦」,第11部「アイルランド問題」,第12部「アメリカに関して」は一連のものとして読むことができる。第10部には様々な人物の報告が収録されているが,戦争の原因を貧窮と見なし,その解消に注力することの重要性を唱えるという点では概ね一致しているように思われる。
それに対して第11部,第12部で中心をなしているのはマルクスのものである。資本主義とレイシズムの結びつきを糾弾し,アメリカにおける奴隷制の廃止やイギリスにおけるアイルランド人とイギリスのプロレタリアートの対立の解消に,資本主義に対する抵抗の端緒を求めるマルクスの姿勢をうかがうことができる。あえて「アイルランド」と「アメリカ」に関する部を設けたのは,こうしたマルクスの主張を際立たせるというムスト氏の意図があったように思われる。アンダーソンによればIWA総評議会のイギリスのメンバーとマルクスの間にはフィニアン党に対する見方に乖離があったとされているが [2],IWA内におけるアイルランド問題やアメリカの奴隷制に関する言論情況がうかがえる資料も収録されていれば,マルクスの主張の背景やその意義がより明確になったと思われる。
第13部「政治組織」には「序論」において示された政党組織の重視というムスト氏の姿勢をよく見ることができる。労働者階級の政治を唱え,IWAの組織化を推し進めようとするマルクス,エンゲルスと,そうした組織がもつ権威性を問題とするギヨームやバクーニンら自治主義者の対立を見ることができる。

疑問点
多くの層に開かれた形で編集された本書は大きな意義をもつものであるが,疑問点がないわけではない。ここでは2つほどあげたい。第1にあげられるのが,IWAの意義としてあげられた国際主義や多様性という視点をムスト氏自身が上手く生かせているのか,という点である。「序論」で描かれた通史で中心となっていたのは,労働者政党の組織化に親和的か否かという点であり,最後になって唐突に多様性の重視が掲げられている印象は拭えない。たしかに本書においては,資料として女性の賃労働を巡る報告や常備軍や戦争に関する報告が収められてはいる。しかし通史においてそれらの資料は脇に追いやられてしまっているのだ。資料を踏まえた上で改めて,相互主義者たちの家父長主義的な姿勢がもつ問題性や,当時の運動に対して国際主義がもった意義などについて積極的な言及があってもよかったのではないだろうか。
疑問点として第2にあげられるのが,政党中心主義的な観点によって,とりわけ相互主義者たちの取り組みが低く位置づけられている点である。彼らが行った協同組合や無償信用の取り組みは,ムスト氏の検討の俎上にものらない。もちろんマルキストというムスト氏の立場上,幾分か相互主義者に対する評価が低くなる点は致し方ない部分もある。しかし看過できないのは,相互主義者の取り組みを低く評価するあまり,マルクスにおける協同組合の評価が抜け落ちてしまっている点である。第5部「協同組合運動と信用」でとりあげられているのは,相互主義者たちの取り組みであるが,本書にも収録されているようにマルクスも協同組合に関しては積極的な評価を行っている。
ただし両者が想定する協同組合は異なるものである。この点に関しては本書にも収録されている両者の資料において,互いの協同組合構想に対する批判からもくみ取ることができる。相互主義者が目指していた協同組合とは,商品の原価での交換や無償信用による利子の廃止などを目指したものと見られる。おそらくこれが消費者協同組合と位置付けられている(216頁)。一方,相互主義者たちが掲げる協同組合を「協同組合商店」(122頁)と批判したマルクスが積極的に評価しているのが生産者協同組合である。収録されている資料からも協同組合を巡る両者の議論の対立が見られることから,この点に関して何らかの言及があるべきであっただろう。
以上のような疑問点はあるものの,本邦においてIWA研究を行う上で基礎となる資料を本書は提供している。本書の刊行を機にIWA研究が盛り上がることを期待したい。

参考文献
・Anderson, K. [2010=2015], Marx at Margin, University of Chicago Press (平子友長監訳, 明石英人・佐々木隆治・斎藤幸平・隅田聡一郎訳『周縁のマルクス』社会評論社, 2015年).

 

[1] 「序論」の付録と12,13節以外は,本書の後に出版された『アナザー・マルクス』(VII,IX章)にも収録されている(原著では本書が2014年,『アナザー・マルクス』が2018年の出版となっている)。
[2] Anderson [2010=2015] 197頁。

 

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Naoki Hashimoto, JSHET

本 書 は 国 際 労 働 者 協 会(International Workingmen’s Association: IWMA) 創 立 150 年を記念して 2014 年に刊行された一般向け 文書集(Marcello Musto ed., Workers Unite!: The International 150 Years Later. London, New York: Bloomsbury)の邦訳である。出版 を廻る状況が 100 年記念時より悪化する中,研究者のそう多くない IWMA の,それも一
般向け文書集の邦訳は,類書が得難く,意義深い。
献辞,目次,凡例,エピグラフ,日本語版への序文,はしがき,序論,国際労働者協会(―宣言,決議,発言,文書),付録 インターナショナル(歌詞),監訳者あとがき参照文献(目録),索引,収録文書一覧から
成る。
収録文書は 80 点,内 32 点のマルクス,エンゲルス文書(邦訳頁で約 45%)以外は初邦訳と思われ[底本では 33 点が初英訳(xxiv)],訳者たちの貢献は大きい。第1部 創 立 宣言[1], 第 2 部 政 治 綱 領 [2, 3], 第 3 部 労 働[4–11], 第 4 部 労 働 組 合とストライキ[12–22],第 5 部 協同組合運動と信用[23–28],第 6 部 相続につい て[29–31],第 7 部 集団的所有と国家[32–42],第 8 部 教育[43–45],第 9 部 パリ・コミューン[46],第 10 部 国際主義と反戦[47–57],第 11 部 アイルランド問題[58–60], 第 12 部 ア メ リ カ に 関 し て[61–64],第 13 部 政治組織[65–80]の各部に時系列で配されている([ ]内は文書番号。文書は 1-1 と部 – 番号で示す)。収録には何倍もの文書の採否の検討と編集作業が不可欠で,その労を多とする。
日本語版への序文で編著者は本邦初の資料集であり,ねらいは新世代の日本の読者に,IWMA の 歴 史, 主 な 思 想, 業 績 を より完全な形で理解する新たな方法を提供する(xvii)と述べる。その方法とは監訳者あとがきが挙げる,①マルクスと IWMA の関係を一次資料に基づいて再構成する,②IWMA の全容を,マルクスだけでない様々な人物や団体の観点から多角的に明らかにすしさ」が証明されていく過程と見るのではな
く,論争の過程や国際的な労働運動の展開に即して見る(412–13)の 3 点であって,初る,③ IWMA での議論を,マルクスの「正邦訳の諸文書によって概ね実現されている。
序論は編著者による IWMA の解説であり,1)始まりの段階,2)うってつけの人材,3)協会員と組織の構造,4)インターナショナルの形成,5)勢力の拡大,6)相互主義者の敗北,7)ヨーロッパ全土への拡大と普仏戦争への反対,8)インターナショナルとパリ・コミューン,9)1871 年のロンドン協議会,10)インターナショナルの危機,11)マルクス対バクーニン,12)マルクス以降―「中央集権主義者」と「自治主義者」のインターナショナル,13)新しいインターナショナル,以上の 13 項に付録 国際労働者協会―年表と協会員数が続く。項立てと分量配分は適切で,上記の新たな方法,特に③との関わりで 12)及び付録の立項と内容に新味がある
序論中,2)は「マルクスの偉大な業績」(6)の記述であり,妥当な評価であろう。
とはいえ,創設の機縁となった集会で,マルクスは「「壇上のだんまり役として」列席しただけ」(7)とあるが,集会でのドイツ人労働者の演説者にエッカリウスを推薦し「1864 年 11 月 4 日付エンゲルス宛マルクス書簡」),演説内容も前夜に協議したとするのが通説(『第一インタナショナル史』刀江書院,1967 年,第 1 部第 1 巻[同書院編集部訳]54)で,かかるマルクス派内での役割分担をイギリス選挙法改正やアイルランド問題等でも示せば,より一般読者の興味を引き,理解も深まったであろう。
編著者は旧ソ連の研究に批判的である(8)。しかし,И. А Bах, И. Н. Толмач B. E. Кунина ред., Первый Интернационал, часть 1/2, Москва 1964/65 は上記邦訳が出るほど標準的であったし,資料収集と厖大な蓄積等でも侮り難いと看做されてきたと評者は見ていただけに,Marx-Engels-Jahrbuch各号の旧ソ連研究者の関連論文とも参照文献に欠くのは意外であった。
典拠でも,上記通説の論拠「1864 年 9 月26 日付マルクス宛エッカリウス書簡」所収 巻(Marx Engels Gesamtausgabe: MEGA2, III/12)同様,I/20-22 他で豊富化した新資料の利用がないのが残念である。例えば,4)インターナショナルの形成中,総評議会でのマルクスの講演『賃金,価格および利潤』を引用している(22)が,底本は,4-12[労働組合による闘争の必要 性と限界]同様,末娘エレナ編の 1898 年刊『価値,価格,利潤』で あ る。 だ が 講 演 原稿 はMEGA2, II/4.1 とI/20 に 2 度も収録され,これが最善の典拠である。(MEGA2 関係は邦訳で補足してもよかったろう。その際,表題中の「賃金」をエレナに倣い「価値」とするのみならず,「価格」か「物価」かの邦訳上の争点をも検討して欲しかった。)
マルクスの著作が IWMA に与えた影響も述べる必要 があった。特に『資本論』と『フランスにおける内乱』(『内乱』)で,前者の出版がローザンヌ大会後となった点はその普及史で必須である。後者が総評議会で「読まれると,満場一致で採択され,全評議員名で公刊されることになった」(47)としているが,当日は相変わらずオジャーやアップルガースが欠席で,『内乱』への連署が論議された 1871 年 6 月 20 日の会議では署名が拒否され,後者は IWMA との関係を絶つと述べ,両人とも退室したこと(The General Council of the First International 1870–1871 Minutes: GC, IV, 217–18)を記し 51 頁の『内乱』の箇所に続ければ,彼らが「敵対的な報道キャンペーンの圧力に屈し」た(51)だけでなく,イギリス労働組合の改良主義的性格を示す好例ともなし得たであろう。
共産主義者同盟から続く視点があれば,3)協会員と組織の構造中の,構成員に資本主義本来の賃金労働者が少なかった点(12)は,同盟も同様で,「自身の先行きを本能的に予見」した手工業職人が多数だったし(Marx Engels Werke: MEW, Bd.8, 581),10)のIWMA の「終幕」(70–71)も,分裂に陥った 1850 年 9 月 15 日の同盟中央指導部会議でケルンへの指導部移転を提案したのと全く同じ措置であった,と示せた。
9)1871 年のロンドン協議会の「最も重な決定は……ヴァイヤンの第 9 決議(組織の集権化等)の承認」(55)としている。直の自治主義者との分裂があるからだが,労農同盟を述べた第 8 決議も非常に重 で,一言欲しかった。
11)マルクス対バクーニンの項末で,編著者はバクーニン『鞭のドイツ帝国と社会革命』から「革命後の官僚制が退廃する危険性」の予見とみる引用を行い,「彼の批判的な洞察は 20 世紀のドラマのいくつかを先取りしている」と述べている(84)が,評者にはむしろ,彼のみならず,レーニンも目前にしていたツァーリの国家が透けて見えるようであった。
収録文書では,資料間の連繋が不十分な場合がある。1868 年のブリュッセル大会の労働時間短縮問題委員会報告 3-10[労働時間の短縮のために]では,※ 15 中に,2-2[ジュネーヴ大会(1866 年)の決議]で「労働日の制限」が採択済みなので,今回は委員会がそれに実践的な効果を与えようとしたことを明記し,両資料の関係を示すとよかった。ましてや編著者は「自由時間(disposable time)」論初出の『経済学批判要 綱』の研究書を有し,この視点から未来社会を具体的に展望すれば極めて有益であったろう。
各文書は,短縮のためか概要 の抜粋が多く,文書の文脈が不明だと理解困難なことがある。7-34[土地所有について](242)は抜粋 5 行だけ。※ 43 の注 3 行のみでは不十分で,MEW, Bd.16, 558–59 等の追記が必要だった。
文 書 の 採 否 で は, 例 え ば 4-13[ ス ト 破りに抗して]よりも同じマルクスに発するジュネーヴ大会採択の決議 2「労資の闘争における協会の仲介による国際協力」(GC [184-1866, I, 341)が優ったか。
翻訳についは,マルクス,エンゲルス文書の既訳が同じ版元の『全集』にある。用いなかった事情が示されるとよかった。これと関連して,例えば 7-38[バクーニンの政策に 対する批判]253 頁 17 行目からの段落などは既訳と対照すればより適切な訳文となったであろう(※ 47 の 6 行目の本文書収録書表題冒頭の「国際」は収録書・底本にはない。
編著者は著者にラファルグも加えるが協力者であろう)。
2-3[ブリュッセル大会(1868 年)の決議]の筆者がカール・マルクスとある([iv],127)が,底本は Various Authors である。審議経過からみて「資本家の手中にある機械の結果」,「労働時間の縮減」項以外はマルクスではなかろう。
biweekly を,『フォルクスシュタート』掲載文書 4-22 と 10-57 の※ 30 と※ 82 で「隔週紙」(202, 338)としている。同紙は 1869年 10 月 2 日創刊,当初週 2 回刊,1873 年7 月から週 3 回刊となる(『全集』33 巻文献目録 57)。熟れぬ表現だが前者は「週 3 回刊紙」,後者は「週 2 回刊紙」が適切である。編著者が twice a week 等と書かぬためだが,『ビーハイブ』紙を編著者が「序論」でbiweekly(1), ※ 57 で weekly(285) と するも,訳者が前者を「週刊紙」と匡している。編著者は同紙を引用するが(2),『フォルクスシュタート』同様直接当たらず,リャザーノフから孫引きした(4, ※ 1, 2)ためであろう。
「「市民戦争」として扱う」(34)は底本 “treat…’as a civil war'”なので,引用符を生かし,『内乱』に合わせ,「「内乱として」扱う」とした方がよい。
付録はポティエの仏語歌詞全文を「原文の意味通りに伝える」初めての邦訳(410)である。各国で「インターナショナル」の普及史研究が進む中,大変貴重 な試みである。
好著であり,一読をお勧めする。
(橋本直樹:鹿児島大学名誉教授)

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村上 允俊, Political Economy Quarterly

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Susumu Takenaga, The History of Economic Thought

As  Ehara  specifies  in  the  “Afterword  of the Translators,” this Japanese version en- titled  Another  Marx is a translation of two books by the original author (p. 390): Another  Marx, published by Bloomsbury Academic,  London,  2018; and Late Marx, for which the publication data is not available.

The former book corresponds to the first nine chapters in  the Japanese translation, and the latter corresponds to the last three chapters and the epilogue. In the original version  of  the former, the nine  chapters are  grouped into  three  parts:  “Intellectual  Influences and   Early   Writings,”  “The Critique   of Political  Economy,”  and  “Political  Mili- tancy,” in  chronological  order.  Hence, the latter book can be virtually regarded  as the following fourth and concluding part of this biography of Marx, which allows us to read this Japanese version not as a combination of two  different  books  but as  one  consistent book.  Yet,  it  is  a pity that  the  “Bibliography”  and “Index” sections in the original first book are not reproduced in the Japanese translation.

One of the most important charac- teristics of this biography of Marx, published in the bicentenary year of his birth, is that the author incorporates the results of the publication of the second MEGA volumes. In particular, it incor- porates the volumes belonging to its Part IV including the excerpt  notes  Marx took  during  his  scientific  activities. This particularly   applies   to   Marxʼs   intensive study during the first  years  of  his  exile in London at the beginning of the 1850s, as discussed in the  first  chapter  of  part 2, and to his extensive study of natural sciences and anthropology during his last years at the beginning of 1880s as concisely described in the first chapter of part 4.

Marx is one of the few figures in the history of economic thought, of whom a considerable number of biographies have been written, from the classic biography authored   by   Franz   Mehring in 1918(English translation: Karl Marx: The  Story  of  His  Life,  Routledge,  2003) to the recent voluminous work by Gareth Stedman Jones entitled Karl Marx: Great- ness and Illusion, Allen Lane, 2016, leaving aside the other numerous banal ones published in the ex-Soviet  Union.  The author of the present biography attempts to  present  “Another  Marx” to  his  readers, -one  that  has  never  been seen in these foregoing biographies. Marx is, of course, not only an economist; he is a philosopher or social thinker in the broad sense of the term, and above all, a communist revolu- tionary. However, it is also incontestable that in all of his wide range of political and scientific activities during his life- time,  his  economic  research  occupied  a key place. From the very early times, one of his most important objectives was to achieve a systematic work on political economy.

Traditionally, the three Books of Capital were considered as such. In contrast to Capital, the early economic writings of Marx, represented by the Economic and Philosophic Manuscripts  of 1844, published for the first  time during the 1930s as byproduct of the editorial work of the first MEGA in Moscow,  were  regarded in such a tradition as  “immature or pre-Marxist  writings.” In opposition to this view, some biographers of  Marx   described his manuscripts of 1844   rather   as   embodying a  “newly discovered,  true Marx”  who had been overshadowed  till  then  by  the  “scientifi- cist, objectivist” understanding  of his theory  and  thought.  The  author of the present biography criticizes both of these views, predominant until recent times, to bring   forward   the   gradual evolutionary process  of  Marxʼs  economic  research. According to the author, the essential links  between  the  “young”  and  “mature” Marx  consist  in  the  excerpt  notes taken during the early years of the 1850s, known as the “London notes” published for the first time as second MEGA-volumes; and the first   manuscripts  of  Marxʼs  critique of political economy from 1857 to 58, well known  today  as  “Grundrisse.”  Therefore, the author examines the former material in   detail,  to  connect  Marxʼs  economic research and its results, from the mid-1840s to the late-1860s. Considering Marx as an economist, this may be the most remark- able point in this book. Another important contribution  of this biography is the vivid description of Marxʼs  activities  in  the  General  Council of the International from 1864 to 1872  and of his continuing conflicts with Bakunin and Proudhon. The author emphasizes  the  fact  that  Marx  and  his partisans were rather a minority in this organization, and that Marxʼs view on the labor movement and its objectives underwent important  changes  during these years. Simultaneously, Marx was very busy drafting the manuscripts of all the three Books of Capital. He eventually published its first Book in 1867. The  final,  fourth  part  of  ʻLast  Marxʼ lively depicts how he struggled, till the end, to complete Capital and extend his intellectual curiosity to an ever wider range. Although the analytical part of Marxʼs main economic works(Capital to begin with, and including The Poverty of Philosophy, Wage Labor and Capital, Contribution  to  the  Critique  of  Political Economy, and other manuscripts)still leaves something to be desired, this is certainly a novel biography for the new and younger generations.

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Jun Shiota, Seikatsu Keizai Seisaku

さて、本書をどのように捉えるべきだろうか。

最新の研究に裏打ちされた文献学の研究書か、あるいは「人間マルクス」を描き出す人物伝か、はたまた社会運動や労働運動に従事する者たちを鼓舞する運動書か。どれかひとつに絞ることは難しい。本書にはこれらすべての要素が織り込まれているのだ。
とはいえ、著述方法のみ見れば本書はマルクスの青年期からその最後の瞬間までを追う伝記といえる。注目すべきは、本書がマルクスの晩年の経験と思想的飛躍をより詳細に描きだしている点である。それを可能にしたのは、マルクス=エンゲルスの著作、草稿、書簡、メモに至るまでを掘り起こし分析するMEGA (Marx-Engels-Gesamtausgabe)研究の進展であろう。
弾圧と貧困、左翼内での対立や誤解、そして再発する重病の中、それでもマルクスは世界中の活動家、ジャーナリスト、思想家と絶え間なく交流し、自らの思想を更新し続けた。例えば、ロシア、ナロードニキ運動の活動家との往復書簡において、マルクスは共産制社会への道筋がただひとつではなく、多様な軌道を描く可能性をはっきりと示し、教条主義的で図式的なマルクス受容を徹底的に峻拒する姿勢を示した。さらには、最晩年のアルジェリアへの旅 (最初で最後のヨーロッパ外への旅)の中で、彼は「〈ムスリム社会における〉国家の存在感のなさ」を実感し、植民地主義への批判的思考を深めたのであった。
哲学者、経済学者、政治運動家、あるいは病人、父や祖父としてのマルクスを、その多面性を失わず、それでいてそれらを一つの線で結ぶようにして描く点に本書のおもしろさはある。『ヘーゲル国法論』 から「経済学批判要綱』、『資本論』にいたるまで、彼は徹底して学者としての立場を貫いた一方で、インターナショナルの創立と解散に決定的な役割を果たした重要な活動家でもあった。労働者の置かれた現実に依拠して未来の共産主義社会とそれに向けた道筋を描き出す彼の理論と思想は、プルードンやバクーニンらと真っ向から対立し、マルクスは彼らに対して烈火のごとく批判を浴びせ続けた。だが、これも彼の一面にすぎない。極貧と過労によって彼はほとんど常に何らかの病を抱え、このような状況では執筆などできないと何度も弱音を漏らし、その度にエンゲルスに励まされた。また、孫への溺愛ぶりは闘士マルクスのイメージからおおよそかけ離れたものであった。しかし、そのどれもがマルクスであり、これまで様々に解釈されてきたこの「巨大な天才的な人物」(エンゲルス)をこれまでとは異なる、ひとつの「アナザー・マルクス」として著者はまとめあげる。
こうした綜合性の一方で、本書の各章における掘り下げの甘さには批判が向けられるかもしれない。しかし、おそらく著者にとってはこの批判は織り込み済みだろう。一読すれば本書が研究者だけではなく、幅広く一般読者をも想定して書かれていることがわかる。新自由主義的グローバリゼーションの進行とそれに連なる世界的な経済危機は、各国における労働者の状況を新たな局面へと導いた。労働者の苦しみと怒りを権威主義と排外主主義によって回収しようという流れさえあるこの時代に、幅広い読者に向けて綜合的なマルクス理解を促す本書はきわめて重要な一冊だ。そして、それはまた、理論と実践を行き来したマルクスの姿勢を著者自身が引き継ごうという意思表示にも見える。

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Interviews

Labour Rights and Globalization

は適当ではない」「国民に広く平等に官職を公開し最も能力・適正の面から優 れた者を公正に任用することが求められる」などとして、公募要件を撤廃し ようとしていません。
しかし、「期間業務職員の公募にかかる全労働の見解」でも明らかになって いるように、公募によらずに専門性の高い非常勤職員の雇用を更新すること は、成績主義や平等取扱いの原則には反しませんし、逆に道理にかなってい ると言えます。円滑な公務運営や職員の健康にまでも悪影響を及ぼしている 期間業務職員の機械的な公募は廃止すべきです。
ひきつづき、国で働く非正規労働者の雇用の安定と労働条件改善にむけて、 一層とりくみを強化していくことが求められています。

イタリアと日本の労働運動を
マ7レクス研究者と考える
マルチェロ・ムスト
ヨーク大学准教授。1976年生まれ。著書に『アナザーマルクス』『ラ ストマルクス』他。
聞き手九後健治国公労連書記長

ムスト お招きいただいてありがとうございます。私は自分の著作をアカデ ミック以外の人たちにも広げていけるように世界各国で刊行しています。特 に社会運動とか労働運動に対しても訴えかけていくようなことが重要で、本 日、国公労連に来られたことも私にとってすごく重要です。
そのように考える理由は2つあって、1つは政治的な考えとして国際的に やっていくことが重要であるということです。グローバルな問題は国際的に 協力していかないと解決できないからです。私が最新刊の『アナザー・マル クス』で一番、力を入れて書いたのは、マルクスが第1インターナショナル の創始者であったということに関してなんです。
もう1つは個人的な理由で、私の母は労働組合のリーダーをやっていて、5 歳とか子どものときからこういった会議室で運動に関わっていたんです。み んな大人が会議している横で絵を描いていたりしたんですけど(笑)、ときに は工場労働者のひげ面でガタイのいい人が自分を膝の上に乗せて「資本家が 何とか…」みたいな話をしていました。そういった環境で育って、大きくな ったら自分もそういったことをやりたいと思っていました。

ー日本ではあまり子どもを連れて会議に来る方は少ないので、ぼくらからすると それ自体が貴重な経験だと思いますね。
厶スト 子どもを家に置いておくことができなくて連れてきたということで もあって、それは女性が活動する難しさでもありますね。
一そうですね。そのイタリアの労働組合、労働運動はどのような状況でしょうか。
ムスト イタリアは3つ大きなナショナル・センターがあって1つは共産党 系の労働組合で500万人以上の構成員がいます。2つ目がキリスト教民主系で 300万人。もう1つが2つの間に位置する中道左派的な労働組合で150万人。 イタリアは他の国に比べて労働組合員がとても多い国ですが、この20年間の 間にヨーロッパの中のどこの国でもそうですけど、どんどん組合員が減って きている状況です。
加えて労働組合が労働者からの信頼を失ってきており、それは労働組合が いま中道左派的なポジションにいるからです。中道左派が政府と近いところ におり、政府がヨーロッパの中ではかなりひどいネオリベ政策をやっている のに労働組合も賛同してしまっています。10年前の経済危機の後からヨー ロ ッパが支配階級のものになっていって、労働者階級の暮らしをよくしていく ものではなくなっていきました。ポピュリスト政党とか、反政府主義みたい なところが出てきて、左派も右派もやっていることが同じになってきていま す。それで労働組合に加入するということが自分たちのためにならないとか、 どうでもいいこととなってしまった。
今日ではマルクスの時代と違ってもっと難しくなっていて、例えば本国に ある工場を閉鎖しても、もっと賃金の安い地域に工場をつくって、より低い 賃金で物が生産できるようになっています。これがいまカール・マルクスに 戻ることの重要性で、マルクスは150年以上前にこういった状況についても書 いているからです。マルクスに戻るということは労働者の主体性に立ち戻る ということです。
その上でヨーロッパないし世界的に労働組合にとっての困難が2つありま

す。1つは労働者階級の状態が大きな工場にみんなが集まるような状況では なくなってきていたり、契約の種類が複雑化してバラバラな契約の下で働い ているため、労働者を組織したり動員したりすることが難しくなってきてい ます。
もう1つの問題は右派政党の政策が移民を使って労働者を分断させようと しているということです。人種差別主義的な政策をとる政党は、労働者の賃 金が安いのは移民や難民がやってきているからだといいますが、実際は移民 が押し寄せてきているということ自体はそんなに大きな問題ではなく、労働 者と困窮者を戦わせるようになってきているということが問題で、これも労 働組合が移民労働者を一緒に組織することを難しくしている要因です。
また、ここ十数年かは労働組合が政党と強い結びつきを持っており、労働 組合にとってすごくマイナスなことになっています。結びついている政党が 政権を取っても、マーストリヒト条約がネオリベラルな政策を推進させるよ うになっているため、そうした政策をとる政権に労働組合が従う状況となり、 労働組合の信頼の喪失につながってしまったのです。マルクスはそれとはつ きりと違うものをつくり出そうとしていました。マルクスは労働組合という のは完全に政党から切り離されてなければならないと書いています。労働組 合は労働者階級とか、人間の生活状態を改善することに役立たなければいけ ないわけです。政府が中道左派であろうと右派であろうと、労働組合は完全 にそこから切り離されていなければいけない。これがこの間の教訓であると 思います。
公務員はヨーロッパでもものすごい攻撃にさらされていますね。先ほどの 移民と同じ形で、労働者同士が敵対させられています。私企業の労働者と公 的企業や公務員を対立させるわけです。ネオリベ側のプロパガンダとしては、 公務員労働者は怠惰、怠慢であると攻撃してきます。「公務員たちは国家の仕 事があるからとてもラッキーだね」「公務員労働者のせいで国全体が機能しな くなっているんだ」と。たしかに過去を見てみると、実際に公務員労働者は いい額の給料をもらっていたこともあります。しかし2008年の経済危機以降、

多くのヨーロッパの政府が財政危機に陥るようになり、インフラで物価は上 昇しているのに公務員労働者に対してより多くの賃金を払わないようにして います。
ーそれは聞けば聞くほど全く日本も同じだと思います。民間労働者というよりも 国民全体から公務員バッシングが強いですし、給料もそうですが、人件費とい う意味で人を減らせという声がけっこうあるんですね。その結果、いわゆる非 正規の公務員、それは1年契約が基本ですけど、1年契約の公務員が相当増え ていたりですとか、仕事そのものを民間に委託をするというのが増えています。 行政サービスの質も落ちていると思います。
ムスト 公共交通機関の労働者も同じ状況にありますね。民営化されて値段 が上がって、お金をちゃんと使わないのでものすごいトラブル、最大級の卜 ラブルが起きることもある。
—ヨーロッパでは水道など民営化したものをまた再公営化をするという話も聞き ますが。
ムスト 確かに民営化に対する批判はありますが、いったん民営化をして、そ れを実際に公共セクターに戻してくるのは難しいです。その一方で銀行は破 綻したら国有化する。「資本家というのは民営化を進めたがるけれども、債務 はどんどん公営化したがる」というマルクスのおもしろい警句があります。
水は少し違う感じで、最後の公共のものというところもあり、みんなが強 く抵抗して公共セクターにとどめようとしていました。これはヨーロッパだ けではなくて南アメリカでも同じ状況があると思います。ボリビアのコチャ バンバでは水の民営化に対してものすごく強い反対闘争が起きました。これ が革命的・改革的な運動の始まりで、エボ・モラレスを大統領にするのにつ ながっていきました。水の民営化に対する闘争というのが地域のコミュニテ イを守っていくことにもつながっていっています。
問題は2つあって、1つはヨーロッパのマジョリティーが右派になってき ています。もう1つは、経済が完全に政治を圧倒している状況が広がってい ます。社会政策の方針も変えられない。なぜかと言うと、ELFから経済政策の 方針はこうしろと言われているからで、、公営化や新しいサービスをつくるに

もお金が要りますが、そのお金がそもそも確保されておらず、ずっとできな
い状況が続いています。
一そうした世界の状況に対して、日本の労働組合には何が求められていると思い ますか。
ムスト 正確な状況はわからないので何とも言えないんですけど、もし方針
や資料が英語で読めるのであれば、今度ぜひ見たいです。
いま労働組合にできることというのは、世界中で広がっている労働者同士 の競争と労働者間の分断状況を引っくり返していくようなことをどんどん示 していくことです。
欧米の資本家は「おまえらは日本人みたいに働け」と言うんです(笑)。も し日本の状況が変われば、私は「君たちは日本人みたいに連帯するのがいい んだ」と言うことができるようになります。ただ、これはすぐに実現するの が難しいのはわかっています。
ー課題は幾つかあって、1つはさっきの労働者同士の競争という部分ですね。こ れが日本でもけっこう顕著になってきているという議論もあって、例えば公務 員の世界でも人事評価制度というのが入っています。そういう状況に加えて正 規と非正規という階層もあって、なかなか連帯をしようというふうになりにく い。まずはそこからだとは思います。
もう1つは、日本の労働組合は企業内労働組合なんです。だから社会的な問 題というのがなかなか共有化できないし、自分たちが抱えている問題を社会的 な問題にしにくいというのもあると思います。そこをどう打ち破っていくかが 課題かなというふうに思います。
私たちはさきの国会のときに「働き方改革」に対抗するために「ヨーロッパ のように人間らしく働こう」ということを宣伝していたんですけど(笑)、実 際はネオリベの攻撃でヨーロッパの人たちの働き方も、日本みたいに過労死が おきたりしているのでしょうか。
ムスト ヨーロッパでもどんどん悪くなっている状況です。でも世界的に見
ればまだいいほうです。
一番重要なのは、会社ごとに分断されていない労働組合があって、昔の労 働者たちがやっていたことを振り返ることです。同じことをやれというので はなく、そこからアイデアをもらって生き返らせるという意味で。

私の本に関して言っておきたいのは、資本主義について書かれていること が重要である、社会を変えていくために理論というのが重要であるというこ とです。理論は他にもたくさんあるのですが、多くがかなり小さい狭いとこ ろしか見てなくて、全体を見るようなものがほぼない。これだけ高度な技術 を持つようになったグローバル化社会の中で、小さい問題だけを見ていても 問題を解決することはできません。
これからもいろいろと連絡を取り合って、国際的な連帯をするために一緒 に仕事をしましょう。
ーこちらこそ貴重なお話をお聞かせいただいてありがとうございます。改めて厶 ストさんの問題意識や現状認識はわれわれと近いと感じました。ご著書でもま た勉強もさせていただきたいなと思います。ありがとうございました。

 

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Kimi Oki, Dokushojin

文献学的手法に基づくマルクス伝
晩年のマルクスに比重が置かれる

イタリア出身のマルクス研究者の手によるマルクスの伝記である。

マルクスについてはこれまでも数多くの伝記が書かれてきた。古典的なものとしては、E・H・カーの『カール・マルクス』、アイザイア・バーリンの『カール・マルクス』、D・マクレランの『マルクス伝』があるし、ここ最近に限っても、ジャック・アタリの『世界精神マルクス』やジョナサン・スパーバーの『マルクス』などが相次いで出版されている。これらの類書と比べた場合、本書は、最新のMEGA研究に基づいていること、晩年に比重が置かれていること、この二点に特徴がある。

MEGA(『マルクス=エンゲルス全集(ゲザムト・アオスガーベ)』の頭文字を取った略称)とは、マルクスとエンゲルスの著作や往復書簡のみならず、現存する草稿やノートなども含め、あらゆる文書を収録することを目指したプロジェクトであり、一九七五年に刊行が始まり、現在も進行中である(因みに、大月書店から翻訳が出ている『マルクス=エンゲルス全集』は、正確には『全集』ではなく、『著作集(ヴェルケ)』である)。MEGAの編集にも携わってきた著者は、とくに、マルクスの作成した膨大な抜粋ノートに注目する。マルクスは、若い頃から、読書の際に文章を書き写し、その傍らに注釈を付ける習慣があった。このノートを丹念に調べながら、著者は、マルクスの思想の変遷を辿ってゆく。例えば、一八四四年に書かれた『経済学・哲学草稿』と一八四五-四六年に書かれた『ドイツ・イデオロギー』の間には、理論上の断絶があるという主張がアルチュセールによって(日本では廣松渉によって)なされてきたが、著者は、MEGAで新たに公表されたノート類を駆使して、両者の間の欠落を埋め、連続的な道筋を描き出そうとする。

また、これまでの伝記では、一八六七年の『資本論』第一巻の出版がクライマックスに位置づけられ、その後の数十年は言わば余生として簡単に済まされることが多かった。著者は、この晩年の叙述に実に半分近くもの紙幅を割き、『資本論』第一巻刊行後もマルクスの思想が不断に変化し続けたことを書簡等を援用して跡づける。そして、それによって、最晩年の到達点が、よく知られたマルクス像とは異なるものであることを示そうとする。例えば、マルクスは土台としての経済が歴史を動かすという唯物史観を説いたと一般に受け止められているが、著者は、人類学の最先端の知見に触れたことによって、晩年には複合的で柔軟な歴史観をもつようになったと述べる。また、革命の見通しについても、ロシアの農村共同体の研究を通じて、ヨーロッパ以外の場所では、資本主義を経由することなく共産主義に至る道がありうると考えるようになったという。こうした解釈が(訳書のポップな装丁に反して)手堅い文献学的手法に基づいて展開されてゆく。

本書の題名には、旧来の理解とは異なる新たなマルクス像を提示するという意図が込められているが、その際、「アザー」ではなく「アナザー」という形容詞を使っているところに文献学者としての著者の矜持が現れている。そこには、厳密な文献学的考証によって、幾多の誤ったマルクスとは違う、一箇の、真のマルクスを明らかにするという自負が垣間見える。しかし、文献学的に妥当な手続きを踏んだとしても、それによって示された思想が資本主義を根底から批判しうる強度をもっていなければ理論的には意味がない。文献学的な瑕疵があるにせよ、アルチュセールがマルクスから引き出し、発展させた哲学には、そうした強度があった。逆に、最新のMEGA研究を用いて示された「アナザー・マルクス」、青年期の疎外論的な枠組みをマルクスは終生手放さなかったとか、晩年のマルクスが共同体に共産主義の可能性を見出したといったマルクス像には、どこか既視感を覚え、残念ながら評者はあまり興味をもてなかった

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日本でもマルクスをリバイバルさせよう!

二〇一八年はマルクス生誕二〇〇周年でした。近年、世界中でマルクス再読の動きが広がっています。なぜいまマルクスが再評価されているのか、そして、こうした世界的な流れのなか、日本で私たちがするべきことは何か。「マルクス・リバイバル」の旗手役として活躍されているマルチェロ・ムストさんにお話しいただきました。
※本記事は、二〇一九年一月一五日に開催された POSSE Cafe第二回「マルクスと現代の若者の労働」の抄録です。

マルクスのアプローチがいま求められている
マルチェロ・ムストです。一九七六年にイタリアで生まれ、高校生のときに活動家になりました。当時取り組んでいたのは、難民を支援する反差別運動です。大学で反資本主義や共産主義を勉強しました。大学に入って以降もずっと活動を続けていて、大学の先生になったのは偶然です。博士号を取得後は、六年のあいだにベルリン、アムステルダム、コペンハーゲン、オスロを転々としました。そして二〇〇九年にカナダで大学の教授としての仕事を得ることができました。
故郷の美味しいイタリア料理を捨ててまで(笑)マルクスを勉強しようと思った理由は、やはりマルクスが、この複雑な社会を一体として把握・説明することができている、ということに尽きます。

ここ三〇年間の流れを見てみると、いまこそマルクスを読むことが切実に求められている時代だといえます。マルクスの対極にあるのが、たとえばポストモダニズムと呼ばれる思想であり、これは基本的には社会の一部だけを取り出して説明するという性格が強いですね。

こういう一部分だけを扱うというアプローチは、学問の領域だけではなく、社会的な領域においても少なくありません。たとえば、ここ二〇年の社会運動の歴史を見ても、多くは社会問題の一部分しかアプローチしない。もちろん、私はこれらの社会運動を支援しますし、非常に重要な取り組みであることは認識していますが、でもそこには限界がある。なぜなら、それぞれが個々の問題の解決を図ろうとしても、それだけでは依然としてそれらの根本にある大きな問題は解決できないからです。その大きな問題というのが、マルクスが資本主義と呼んだものです。

この資本主義という言葉自体が、最近は使われなくなってきています。マルクス以前は、資本主義は普遍的なものであり、永遠に続く自然的なものだと捉えられていました。ここに、マルクスを踏まえて考える意義があるのです。

「資本主義は永遠で不変である」?
さて、現代のほうに目を向けていきましょう。現代の抱える大きな問題は、社会運動がなぜ、それほど広範に広がっていないのか、ということです。これは一九九一年にソビエト連邦が崩壊したことで、いわゆるマルクス・レーニン主義がダメだ、と考えられるようになったことが大きいですね。ただし、こういったマルクス・レーニン主義、あるいは社会主義国といわれるソ連などの国々というのは、マルクスの思想とはほとんど関係がありません。マルクスは、その国家体制を正当化するために都合のいいように利用されたにすぎません。マルクスのいうような市民や労働者が自由に個人を表現するということは禁じられおり、むしろ非常に抑圧的で非民主的な政治体制でした。

ソ連の崩壊に対する反応は二パターンあります。一つには、資本主義は永遠で不変であると捉えるようになり、人々が資本主義という言葉を使わなくなる。そして、「リベラリズムが問題をすべて解決するのだ」という言説が非常に強くなります。
もう一つは、いろいろな社会運動が現れてきたのですが、先ほども述べたように、一般的な社会全体の問題を解決しようとしていないのですね。

労働者側からの闘争なき階級闘争
それでは、このようななかで何を考えなければいけないか。今日お話しするのはマルクスの理論でももっとも使い古された話ですが、でも私は日本で一番重要な話だと思っています。それは、「階級闘争」です。
日本を外から見ていると、階級闘争は実に非常に多くの場面でおこなわれているんです。ただ日本に住んでいる人々にはそれがなかなか見えていないんですね。ここで、階級闘争とはもちろん労働者と資本家との闘いのことですが、相互に闘うわけですから、労働者の資本家に対する闘いだけではなく、資本家が労働者と闘うことも含まれる。ここ三〇年間では労働者が闘う機会がほとんどなくなってしまっていて、逆に、資本家の側が労働者に対してもっと苛烈に闘っています。
世界を見てみると、冷戦時代に、ソ連以外の国家は自国に社会主義が拡がることを恐れて、社会民主主義的な政策を非常に多くとりいれました。いわゆる階級妥協です。これは今日では福祉国家と呼ばれています。この福祉国家はこの三〇年で激しい攻撃にさらされてきました。これは世界的な現象ですが、こうした福祉国家に対する攻撃は、新自由主義と呼ばれていますね。労働者が資本家に負けているということです。

こうしたなかで進んでいるのが、雇用の不安定化です。グローバリゼーションによって一五〇年前のマルクスの時代よりも、マルクスが言ったことがかなりはっきりと現れてきています。利潤を最大化するために日本からの生産拠点の移転もかなりおおっぴらにおこなわれています。

あるいは富の格差の拡大という面から見れば、五~六〇年前よりも状況は圧倒的に悪化しています。ソ連が崩壊した時に、「これからは労働運動の妥協を踏まえなくても資本主義が全部調整してくれる」という話がかなり跋扈しましたが、その結果はどうでしょうか。南北間のグローバルな格差が拡がり、かつ環境破壊が爆発的にすすんでいます。利潤を最大化するために生産力をあげていけば、いずれ環境が生産力の発展の制約になるとマルクスは述べたわけですけれども、まさにいま起こっていることですね。

福祉国家そのものは資本主義の枠組みを超え出るものではないですから、究極の目標にはなりません。とはいえ、マルクスは資本主義を克服するために福祉国家を利用することは評価していると私は考えます。それは福祉国家が労働者の生活環境を向上させるからであり、とりわけ重要なのは労働時間の短縮です。実際、機械化やテクノロジーがこれだけ発展していますから、本来は労働にもっと余裕があってしかるべきなんです。なぜそれができないのかというと、自由時間をすべて資本家が掌握しているからですよね。

いまの社会体制と闘うための武器
ここで階級闘争に関してマルクスが言及していたことをお話しすると、マルクスは、労働運動などの闘争に参加することで、労働者の個人的な解放を目指していました。そこで一番重要なのは、誰かに任せていたら何も達成できない、ということです。労働者自身による解放が重要だということですね。
ギリシャ語でポリスという言葉があって、ポリティクス(政治)の原語であるわけですけれども、重要なのは参加のプロセスなのです。しかし、いま起こっていることはまさに真逆のことで、人々は何かがあってもそれを消極的に受け入れてしまっている。

日本においては、既存の社会機構や体制に対する批判が弱いのではないでしょうか。たとえば、二〇一八年はマルクス生誕二〇〇周年でしたが、国によっては「一九六八年」の五〇周年を祝った国もあります。一九六八年には学生たちが、たとえば女性の家庭内における抑圧や、あるいは既存の権威主義的な体制を批判する運動に取り組んでいました。このように現存の問題含みな体制と闘うことが、いまの日本ではさほどおこなわれていないのではないかと思います。
他方でヨーロッパの状況はどうかといえば、現在ヨーロッパの経済政策は基本的にIMFや国際通貨基金、欧州委員会といった組織の官僚が一方的に決めてしまっていて、個々の国家ではほとんど何もできないという状況になっています。そのなかで、労働者は以前に比べてより長く働かなければならなくなってきています。

とはいえ、ネガティヴな話ばかりではありません。近年ではこうした既存の社会体制に対する批判的な動きも出てきています。一番よく知られているのは、二〇〇八年の金融危機後に起こった運動ですよね。資本主義に対するオルタナティヴがたくさん議論されました。学問の世界にとどまらず、社会的な領域でもこういった動きが出てきています。
ただし、そうした動きは左右どちらからも出てきていて、もし極右の台頭をこのまま許すのであれば、いっそう悪い社会体制になる可能性もあります。排外主義が蔓延して軍隊が政権をとるような社会体制もありうる。

その一方で、左派の側からしたら革新的な体制を生みだしうる余地があるということです。ソ連はかなり抑圧的な体制でしたが、ソ連が崩壊した一九九一年の後には、「そうではない別のかたちでどうやったら社会を組織できるのか」という議論が起こっています。そのようにしていかないと、実際に格差がどんどん広がり、戦争が起こり、難民が大量に発生し、環境破壊がどんどん進んでしまうからです。こういったなかで新しいアイディアが次々に出てきている。
近年、マルクス・リバイバルが世界的な流れになっています。日本ではまだかもしれませんが、世界では各地でマルクスに関するシンポジウムがおこなわれていて、多いときには一〇〇〇人以上が参加して議論しています。

では、なぜマルクスはいま再評価されているのでしょうか。マルクスが言ったことは、マルクスが生きた一八五〇年代の社会にだけあてはまるわけでも、イングランドないしはヨーロッパにだけあてはまるわけでもなくて、もっと普遍的な資本主義の傾向や矛盾を捉えているからです。マルクスを教条主義的に捉えるのではなく、きちんと自分たちで考えていけば、必ずヒントが見つかるでしょうし、マルクス本来の意義を再発見できるだろうと思います。くり返しになりますが、資本主義は歴史的なものであって、永遠の自然的なものではありません。労働者個人の解放にとどまらず、資本主義的生産様式を変革し、どうやったら環境に負荷をかけずに生産ができるかを考えていくこともできるでしょう。

では、私たちはどうするか
会場からの質問:日本の現状に対して、私たちはどのように動いていけばいいのでしょうか。

フラストレーションが高まっているのはよくわかります。日本のように運動が困難な国では特にそうかもしれません。でも「こうやったらこうなる」という魔法のような何かがあるわけではない。私たちがこれから何をするかで変わってくるのです。
たとえば労働運動の歴史では、これまで「革命は自動的に起こる」「資本主義が行き詰まって労働者の生活環境が悪くなっていけば不満を持って自然と立ち上がるのだ」と言われてきましたが、私は違うと思います。重要なのは、研究をおこなうこと、そして仲間を組織することです。イタリアのグラムシという学者は「学ぶこと、そして組織すること、これらが重要だ」と説いています。社会について勉強し、どういう仕組みで社会が動いているかを理解する。そして、それにとどまらずに実際に人々を組織することです。

理論活動と実践をおこなっていく―これはまさにマルクスの人生でした。マルクスの理論はつねに労働者階級のための理論であって、実際にマルクス自身が第一インターナショナルで、労働者を組織したり労働者向けにいろいろなものを書いたり、という実践をしています。ですからたとえば、大学のなかで学生を組織してみたり、映画鑑賞会を開いてみたり、あるいはデモをおこなったり、あるいはPOSSEがおこなっているように雑誌を発行してみたり、こういった具体的な実践が非常に重要だと思います。

グラムシが言ったのは、文化、そして教育が果たす役割の重要性です。人々が階級意識を育むのには非常に時間がかかります。そして、歴史的にみても教育はほとんどの人々にとって、もともと与えられていたものではありませんでした。女性は基本的に教育から排除されていましたし、労働者は差別されていて、八歳くらいから現場で働いていたので教育を受ける機会がありませんでした。民族的な差別も非常に横行していました。そういった人たちが勉強したのは、労働組合の支部などといった場所だったのです。

こういった長いプロセスの積み重ねが福祉国家につながりましたし、そのなかでまともな仕事を求めたり普通に生活できる住居を確保できるようにしたりしていったのです。いまの状況を悲観的に捉える必要ありません。かといって楽観的に考えているだけでは社会はよくならないので、もっといまの社会を深く理解していくことが重要だと思います。

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Shuji Kamioka, Amazon.co.jp

マルクス・リバイバルの旗手役であるムストが若い世代に向けて書いたマルクスの新しい伝記。

学生時代のマルクスから、経済学研究と政治的活動に苦難した時代、そして療養のためのアフリカへの旅まで包括しており、非常に充実した内容となっている。

その最大の特徴としては、批判的・歴史的マルクス=エンゲルス全集であるMEGAと、その研究の成果が反映されているところであろう。それは特に、マルクスが若い時に書いた『経哲草稿』の性格の位置づけ(抜粋ノートのはりつけがいかに多く未完成なものだったか)や、インタナショナルの実態についての叙述、晩期マルクスの共同体論に現れている。

理論的にもう少し展開してほしいところや内容的に修正が必要な箇所は見受けられるものの、ソ連型の伝統的マルクス主義や、それに対抗して現れた初期マルクスを持ち上げるマルクス解釈への批判としては優れた伝記だと言えるだろう。ムストが批判対象としているマルクス解釈が日本では根強いだけに、『経哲草稿』の文献学的考証と、マルクスにとっての「疎外された労働」概念の問題意識と核心について描かれた章はぜひ読まれたい。

個人的に面白かったのは、インタナショナルでのマルクスの活動がかなりページを割いて紹介されているところである。インタナショナルでのマルクスについてまとまっている本はなかなかお目にかかれないので、勉強になった。この箇所を読めば、マルクスがプルードンや相互主義者、バクーニンを批判し、国家権力を(奪取ではなく)利用して労働時間規制を勝ち取る改良闘争をどれだけ重視していたのかがよくわかる。マルクス解釈のなかでは改良闘争の限界ばかりが強調されてきたこともあって、伝統的なマルクス理解に馴染んでいる人ほどこの箇所は新鮮にうつるにちがいない。この改良闘争の強調は、日本では特に重要だろう。なぜなら、日本ではヨーロッパと違って改良闘争すら広がらず敗北してきたからであり、まずはそこから出発する必要があるからである。

以上に挙げた、伝統的マルクス主義や規範論的マルクス解釈の批判、改良闘争の必要性の強調という特徴からして、『アナザー・マルクス』は日本で読まれるべくして生まれた伝記といえるかもしれない。

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Japan Tour – Japan – 23 December 2018.

English Version


 

Japan Tour 2018-19

2018/12/22, 報告『アナザー・マルクス』、マルクス生誕200年記念国際シンポジウム「21世紀におけるマルクス」、法政大学、東京

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K. Marx in 21st Century

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マルクスを読もう! マルチェロ・ムスト×ウォーラーステイン

ここ30年、新自由主義政策とそのイデオロギーは、世界中でほとんど敵なしでした。しかし、2008年の経済危機や私たちの社会に存在する根深い格差、とりわけグローバルな南北格差、そして私たちの時代の劇的な環境問題によって、学者や経済アナリスト、政治家たちは、資本主義の未来とオルタナティヴの必要について議論を再開することを迫られるようになりました。

こうした文脈において、今日ほぼ世界中のすべてで、マルクス生誕200年の時期に「マルクス・リバイバル」が起こっています。それは、これまでマルクス・レーニン主義のドグマと誤って結びつけられ、またベルリンの壁崩壊の後に性急に退けられた著作家への回帰のことです。
マルクスへの回帰は、いまだ資本主義の論理とダイナミズムを理解するのに不可欠です。彼の仕事は、資本主義を別の生産様式に置き換えようとするこれまでの社会経済的な試みが失敗したのはなぜかを問う、厳密な試験を与える非常に有用なツールでもあります。これらの失敗に対する説明は、私たちの現代的なオルタナティヴの探究にとって決定的に重要です。
イマニュエル・ウォーラーステインは、現在イェール大学のシニア・リサーチ・スカラーであり、存命中の社会学者のなかで最も偉大で、マルクスの現代的関連について議論するのに最も適した学者です。彼は長い間マルクスを読んできており、彼の著作は1818年5月5日トリーア生まれのこの 革命家に影響を受けてきました。ウォーラーステインは30冊以上の本の著者であり、1971年から2011年の間に出版された四巻組の『近代世界システム』という非常に有名な本を含めて、それらは様々な言語に翻訳されています。

マルチェロ・ムスト(以下太字の文章はムスト):ウォーラーステイン教授、いわゆる「現存社会主義」の終わりから30年が経っても、カール・マルクスがいまだに現在を説明する能力をもっているという出版物や議論、カンファレンスは世界中に存在し続けています。これは驚くべきことなのでしょうか? それとも、マルクスの思想は資本主義のオルタナティヴを求める者たちに関連し続けるのだとお考えでしょうか?

イマニュエル・ウォーラーステイン(以下細字の文章はウォーラーステイン):マルクスについての古い物語にはこんなものがあります。マルクスを前方のドアから投げ出したら、彼は後ろの窓からこっそり入り込んでくる、と。それがいまいちど起こっているのです。マルクスが関連しているというのは、彼は私たちが扱わなければならない問題についてなお語るべきことをもっているからであり、また彼が述べたことは他の大半の著作家が資本主義について論じたこととは異なるからです。1989年に予言されたこととは違って、私だけでなく多くの評論家や学者たちは、マルクスが極めて有用であることに気づき、彼は今日新たに人気の局面を迎えています。

ベルリンの壁崩壊は、社会についてのマルクスの概念とはほとんど関係のないイデオロギーの鎖から彼を解放しました。それにソ連崩壊が続いたという政治的背景も、マルクスを国家装置の看板の役割から自由にするのに役立ちました。世界のマルクス解釈のどんなところが、注目を集め続けているのでしょうか?

世界のマルクス解釈は一つの概念でいうならば、「階級闘争」だと考えられていると思います。私が現代的な問題の関心のなかでマルクスを読んだとき、私にとって階級闘争は、私がグローバルレフトと呼んでいる者たち——その日暮らしをしている世界人口の底辺80%を代表せんとする——の、人口の約1%を代表しているグローバルライトとの必要な闘争を意味するものでした。この闘争は他の19%にもわたります。彼らを味方につけるのは、敵に回すより簡単です。
私たちは世界システムの構造的危機の時代を生きています。現存する資本主義システムは存続できませんが、誰もそれに代わる確かなものを知ることができません。私は二つの可能性があると確信しています。一つは、私が「ダボスの精神」と呼ぶものです。ダボスの世界経済フォーラムの目標は、資本主義の最悪の特徴、すなわち、社会ヒエラルキーや搾取、とりわけ富の二分化を維持するシステムを確立することです。オルタナティヴは、より民主主義的で平等主義的なシステムでなければなりません。階級闘争は、資本主義に代わるものの未来に影響を与える根本的な試みなのです。

 あなたの中産階級に対する考察からアントニオ・グラムシのヘゲモニー論を想起しましたが、大衆、つまりあなたのいう80%の人々を政治に参加するよう動機づける方法を理解することも重要だと思うのです。これは、いわゆるグローバルサウスという、世界人口の大多数が集中しており、過去数十年間に資本主義によって生み出された不平等の劇的な増大にもかかわらず、進歩的な運動が以前より弱体化してしまった地域でとりわけ喫緊の課題です。これらの地域においては、新自由主義グローバリゼーションへの反対はしばしば宗教原理主義や排外主義政党の支持へと水路づけられてきました。私たちは、ヨーロッパでもこうした現象が同様に浮上しているのをますます目撃するようになっています。
 お聞きしたいのは次のことです。マルクスは、私たちがこの新しいシナリオを理解するのに役立つのでしょうか? 近年出版された研究では、あなたの表現をお借りするならば、将来における「後方の窓」を開けるのに貢献するかもしれないようなマルクスの新しい解釈が提示されてきました。こうした研究が明らかにしたのは、マルクスは、彼の資本主義社会の矛盾についての考察を、資本と労働とのあいだの対立を超えて他の領域にまで拡張した著作家だということです。実際、マルクスは多くの時間を、非ヨーロッパ社会研究と、資本主義の勃興期における植民地主義の破壊的役割の研究に捧げています。一貫して、マルクスの社会主義の概念を生産力の発展と同一視するような解釈とは反対に、マルクスの著作においてはエコロジー的な関心が顕著に現れています。
 最後に、学者たちがマルクスについて語る際、しばしば無視してきたような数々のテーマについても、マルクスが広く関心を寄せていました。それらのテーマのなかには、テクノロジーのポテンシャルやナショナリズムへの批判、国家によって統制されることのない共同的な形態の所有の探究、そして現代社会における個人の自由の必要など、私たちの時代のあらゆる重要問題があります。しかし、これらのマルクスの新しい側面——それは、マルクスの思想への新たな関心が今後何年も続いていく現象だということを示唆しています——と並んで、あなたが今日再考する価値があると考えるマルクスの最もよく知られた三つの概念を提示することができるのでしょうか?

まず第一に、マルクスは、資本主義は社会を組織する自然な方法ではないということを誰よりも見事に説明しました。彼がわずか29歳のときに出版した『哲学の貧困』において、彼はすでに資本主義的関係が「自然法であり、時代の影響から独立している」と論じているブルジョア経済学者を嘲笑しています。マルクスがいうには、彼らにとって、「歴史は、封建制の諸制度のうちに、ブルジョア社会の生産関係とは大きく異なる生産関係が発見されるときから存在する」のですが、彼らは自分たちが支持する生産様式には歴史を適用せず、資本主義を「自然的で永遠のもの」だと表現します。私の著作『 史的システムとしての資本主義 』では、曖昧で不明瞭な概念を採用してきた主流派の社会経済学者たちとは対照的に、資本主義は歴史的に発生してきたものだということを指摘しようと試みました。私が何度も論じたように、史的資本主義でない資本主義など存在しません。私にとっては自明なように、私たちもマルクスに多くを負っているのです。

第二に、私が強調したいのは、資本主義の勃興期に起こった、小作農を彼らの土地から引きはがすという意味での「本源的蓄積」概念の重要性です。マルクスは、それがブルジョアジーの支配を構成するにあたって鍵となる過程だったということを非常によく理解していました。それは資本主義の始まりに起こったことですが、今日でもいまだに存在しています。
最後に、私は「私的所有と共産主義」という主題についてさらなる反省を促したいのです。ソ連、とりわけスターリンのもとで確立されたシステムにおいては、国家が資産を所有するが、それは人々が搾取され、抑圧されていないということを意味するわけではありませんでした。実際は搾取され、抑圧されていたのです。スターリンがそうしたように、一国での社会主義について議論することもまた、その時期以前には、マルクスを含め誰の脳裏にも浮かんだことはありませんでした。生産手段の公的な所有は一つの可能性にすぎません。生産手段はまた、共同的に所有することも可能です。しかし、もしより良い社会を打ち立てたいのならば、私たちは誰が剰余価値を生産し、誰が剰余価値を受けとっているのかを知らなければなりません。そうした社会は、資本主義とは異なり、全体的に再組織しなければなりません。これが、私にとって鍵となる問いです。

2018年という年は、マルクス生誕200周年であり、新たな本や映画が彼の生涯にスポットライトを当てました。最近の彼の伝記のなかで、もっとも面白かったのはなんでしょうか?

マルクスは大変困難な生涯を送ってきました。彼は自分の厳しい貧困とも闘ったし、彼が生き抜くのを支えてくれるフリードリッヒ・エンゲルスのような同志にも恵まれました。マルクスは楽な人生を感情的にも送ることはなかったですし、生涯の仕事だと考えたこと、すなわち資本主義がどのように運動しているかについて理解することをやり抜こうとする粘り強さは、目を見張るものがあります。これは彼の自己評どおりです。マルクスは、古代を説明しようとしたのでも、将来における社会主義がどのようなものになるかを定義しようとしたのでもありませんでした。これらは、彼が自分に課した仕事ではありません。彼は、彼の生きていた資本主義世界を理解しようとしたのです。

 マルクスは全生涯において、ロンドンの大英博物館で本に囲まれているだけのただの学者ではなく、常に闘志にあふれた革命的な学者であり、彼の時代の闘争に加わった学者でした。彼は活動のせいで、若い頃フランス、ベルギー、ドイツから追い出されています。彼はまた、1848年の革命が敗北したときに、イングランドに亡命することを余儀なくされました。彼は新聞と雑誌で労働運動を促進してきましたし、また常に彼のできるかぎりの方法で支援してきました。後に、1864年から1872年まで、彼は最初の労働者階級の国際的組織である国際労働者協会のリーダーになり、1871年には、歴史初の社会主義の実験であるパリ・コミューンを擁護しました。

はい、その通りです。マルクスの闘志を思い起こすことは不可欠です。近年『 ワーカーズ・ユナイト 』であなたが光を当てたように、マルクスは簡単な意思伝達の方法もなかった時代に、物理的に遠く離れた人々の組織であったインターナショナルで並々ならぬ役割を果たしました。マルクスの政治的活動はジャーナリズムも含みます。彼は彼の人生の多くを通して、より多くの聴衆に伝える方法としてそれを用いました。彼はジャーナリストとして働いて収入を得ていましたが、彼は自分の寄稿を政治的な活動として見ています。彼は中立であるつもりはまるでありませんでした。彼は常にコミットしたジャーナリストだったのです。

2017年、ロシア革命100年記念のときに何人かの学者たちは、マルクスと20世紀に権力を握ったその自称追従者とのあいだの対比に戻りました。マルクスと彼らとのあいだの主な違いとはなんでしょうか?

マルクスの著作は問題を解明するものであって、彼の思想を単純化した解釈よりも大いに複雑で、多彩です。マルクスの言った、有名な警句を思い出すことは相変わらず有効でしょう。「もしこれがマルクス主義であるならば、私がマルクス主義者でないことは確かだ」。マルクスは、常に世界の現実を扱うつもりでいたのであって、自分たちの考えをドグマ的に押しつける者たちとは違いました。マルクスはしばしば彼の思考を変えました。彼は常に、世界が直面していると考えた問題を解決するために探究していたのです。これこそ、マルクスがいまだに大いに役立ち、有用な指針である理由なのです。

 最後に、まだマルクスに触れていない若い世代に言いたいことはなんでしょうか?

私が若者に言わなければならないことは、第一に、マルクスを読まなければならないということです。彼についての本を読むな、マルクスを読みなさい。彼について議論する多くの者たちがいるのに対して、ほとんどの人は実際にはマルクスを読んでいません。それはまたアダム・スミスについても当てはまります。一般には、これらの古典についての本を読むだけなのです。人々は、他人の要約を通して彼らの理論を学んでいるのです。彼らは時間を節約したいといいますが、実際のところ、それは時間の無駄なのです! 興味深い人々の本は読んでみなければなりませんし、マルクスは19世紀と20世紀の学者のなかで最も興味深い学者です。それについて異論はないでしょう。彼が扱った物事の数の点からしても、分析の質にしても、誰も彼に並ぶものはいません。だから、私から新世代に送るメッセージは、マルクスは飛び抜けて知る価値があるということなのですが、マルクスを読んで、読んで読みまくらなければなりません。カール・マルクスを読もう!

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Marx seitan 200 shunen komentoshu ima, Marx wo yomu imi (3) #Marx200

マルクス生誕200周年コメント集「いま、マルクスを読む意味」(3) #Marx200

掲載は氏名の50音順です。

編集者 林 陽一(はやし・よういち)
「今日までのあらゆる社会の歴史は、階級闘争の歴史である」。

あまりにも有名なこの句から始まる『共産党宣言』を著したとき、マルクスは29歳、エングルスは27歳の若者であった。
歴史や社会の仕組みを、丸ごと解き明かそうとするその情熱と、思想的スケールの大きさには、ただただ圧倒されるばかりである。
「マルクス主義なんてうさん臭い」「今さら役に立たない」などと斬って捨てるのは簡単だ。しかし、そもそも「役に立つ・立たない」という基準でマルクスを測ることが間違っている。彼の言葉は紛れもなく「世界を変えた言葉」であり、人類にとっての世界遺産なのである。モン・サン・ミシェルや万里の長城を観光するのとまったく同じように、私たちはマルクスを「体験」すべきだと思う。
長大な主著『資本論』に臆してしまう人には、比較的読みやすい『共産党宣言』や『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』を推す。

法政大学経済学部 原 伸子(はら・のぶこ)
「マルクスからフェミニズムへ:「導きの糸」としての経済学批判」
私の研究者としての出発点は、資本論形史であり、とくに1861年から63年に執筆された「23冊のノート」でした。当時のソ連の雑誌『経済の諸問題』や『哲学の諸問題』は、新MEGAに含まれる『資本論』草稿、とくに第1部「資本の生産過程」の相対的剰余価値論が現行『資本論』より約100ページも分量が多いことを明らかにしていました。私は、ドイツ語版より先に出版されるロシア語版『マル・エン著作集』第47巻を読むために、さらにロシア語の勉強を続け、修士課程1年の夏休みに第47巻を読了しました。1861−63年草稿には、『剰余価値学説史』として知られる当時の経済学説の徹底的な批判と、『資本論』に結実する経済学草稿がともに含まれています。マルクスの「経済学批判」の方法は、私にとっては、現代と対峙するための方法です。現在、私がテーマとしている「フェミニスト経済学」の研究もまた、ケアの理論の構築にさいしての、現在の主流派経済学批判の「導きの糸」になっています。

ジュンク堂書店難波店店長 福嶋 聡(ふくしま・あきら)
書店の店頭で、「AI(人工知能)」の文字が踊る。本の帯には「AIは、早晩全人類の能力を上回る」との託宣が見える。そして「人間の仕事は、すべてAIに奪われる」と。
ぼくが、かつて第一巻の半分くらいで挫折したマルクスの『資本論』を、再び最初から読み始めたのは、その書店風景に震撼した時だった。朧げな記憶と、マルクス経済学についての断片的な知識が、ぼくに次のような疑問を抱かせたのだ。
“剰余価値を生み出す労働者を機械に代替させて、資本主義が、現在の経済構造が維持できるのか?”
マルクスが資本主義の秘密を徹底的に洗い出す仕事にその一生を費やしたのは、機械が労働者になり替わり、富が一部の資本家にどんどん集中していく、産業革命後の時代においてであった。今日、同型のプロセスが、凄まじいスピードで進行しているのではないか?ぼくたちに身近な「出版不況」も、マルクスが同時代に発見した「恐慌」と同質だ。
マルクスは、古くて、新しい。

NPO法人ほっとプラス代表理事 藤田孝典(ふじた・たかのり)
2018年の現代日本でもワーキングプアを中心とした貧困、格差が社会的な課題となっています。それに伴い、貧困を表す言葉が言論でも増えています。ホームレス、ネットカフェ難民、子どもの貧困、女性の貧困、下流老人…。さらに貧困や格差を表す数字も深刻です。相対的貧困率は15,6%になり(厚生労働省2015)、ワーキングプアの割合も13,3%と働いている人々の8人に1人は貧困です(OECD2016)。だからこそ、生活相談や労働相談も後を絶ちません。要するに「働いても貧困や生活苦から抜け出せない」「8時間働いても普通の暮らしが送り続けられない」という事態が社会に広がっているのです。
マルクスはこれらの人々や労働者が陥る事態を構造的に世界で初めて分析し、資本主義の宿命に立ち向かい、変革していくことを行動でも示してくれた人でした。私たちは残念ながら、今すぐにこの資本主義体制から逃れることはできません。資本主義とはいかなる欠陥や暴力を抱えているのか、生きていくうえでマルクスに触れることは必須だと思います。少なくともわたし自身はマルクスから多くの知見や勇気を得ています。一緒にマルクスと社会を探求してください。

ヨーク大学准教授 Marcello Musto(マルチェロ・ムスト)
The MEGA² make it possible to say that, of the biggest authors of political and economic thought, Marx is the one whose profile has changed the most in recent years. Some recently published volumes of this edition highlighted that Marx was widely interested in several other topics that people often ignore when they talk about him. Among them there are the potential of technology, the critique of nationalism, the search for collective forms of ownership not related to state control, and the need for individual freedom in contemporary society: all fundamental issues of our times.
Research advances suggest that the renewal in the interpretation of Marx’s thought is a phenomenon destined to continue. He is not at all an author about whom everything has already been said or written, despite frequent claims to the contrary. Many sides of Marx remain to be explored.
Moreover, returning to Marx is not only still indispensable to understand the dynamics of capitalism. His work is also a very useful tool that provides a rigorous examination addressing why previous socio-economical experiments to replace capitalism with another mode of production failed. Many of those who will be reading his books today, once again or for the first time, will observe that many of Marx’s analyses are more topical today than they have ever been.
MEGAのおかげで、偉大なる政治思想および経済思想家のなかでも、マルクスは近年その人物像がもっとも変わった一人だといえるだろう。なかでも最近刊行された数巻は、マルクスについて語る際、しばしば無視されてきたような数々のテーマについて、マルクスが広く関心を寄せていたことを明らかにしている。それらのテーマのなかには、テクノロジーのポテンシャルやナショナリズムへの批判、国家統制とは結びつかない共同的な形態の所有の探究、そして現代社会における個人の自由の必要など、私たちの時代のあらゆる重要問題がある。
研究の進展が示唆しているのは、マルクスの思想解釈の刷新は、これからも続いていく現象であるということだ。彼は、頻繁に反論がなされてきたにもかかわらず、これまで論じられてきたことに尽きるような著作家ではないのである。
さらに、マルクスへの回帰は、資本主義のダイナミズムを理解するのにいまだ不可欠であるに留まらない。彼の仕事はまた、資本主義を別の生産様式に置き換えようとするこれまでの社会経済的な試みが失敗したのはなぜかを問う、厳密な試験を与える非常に有用なツールでもある。今日、彼の著作を読もうとする多くの人々は、かつてマルクスを読んだことがある人であれ、初めて読むのであれ、マルクスの分析の多くがかつてなく時節に適しているのに気づくことだろう。

立命館大学専門研究員 百木 漠(ももき・ばく)
マルクスの偉大さは資本主義の本質をずばりと言い当てたことにある。すなわち、資本とは無限に自己増殖する価値の運動(G−W−G')であり、資本主義とはそのような資本を中心にして形成される経済−社会のあり方である、と。一定の貨幣(G)を労働力という特殊な商品(W)へ投資し、その労働力が生み出す剰余価値によって貨幣の増殖(G')が成し遂げられる。この分析は、今日の資本主義にもそのまま妥当するものであり、全く古びていない。
こうしたマルクスの洞察は、われわれに資本主義の〈外〉に出て思考することを可能にしてくれる。通常の経済学は、資本主義の内部においていかに最善の状態を実現するか、を考える。マルクスは違う。そもそも資本主義というシステムそれ自体を疑い、問い直そうとする。資本主義とはそもそも何なのか、それは果たして普遍的な経済−社会の仕組みなのかと。その思考がさらに、資本主義とは別の経済−社会への構想を可能にするのだ。

埼玉大学大学院人文社会科学研究科准教授 結城剛志(ゆうき・つよし)
「萎縮する社会の中で」
いま、大学という組織の中にいると、やれ組織改革だ、入試改革だと、騒がしい。大人たちはずいぶんと自分たちがやってきた教育に自信がないようである。では、大学の組織や制度はなぜ変えなければならないのだろうか。直接には、国が言ったから、あるいは世間がそう言っているから、というものである。驚くなかれ、紛れもなくそれが理由である。
私がマルクスから学んだことは「根本的な正しさとは何か」を問う姿勢である。たしかに、国が言ったことは事実だし、世間さまもそのように仰るのであろう。しかしそこに正しさはあるのだろうか。大学は国から税金をもらっている以上、国に対して何かしらの言い訳をしなければならない。国は国民に対して何かをしているという感じを出さなければならない。言い訳や釈明のための演出に追われ、教育そのものが議論されることはなくなっている。
朝日新聞に掲載された「火垂るの墓」(高畑勲監督)に関する記事も印象的である。「我慢しろ、現実を見ろ」。生きるためには屈しなければならない。それが現実だ、と。世間はそう言うのだそうだ。たしかに、生きるだけならそれでいい。自分を曲げて生きればいい。しかし、死んで正しさを守る道もある。少なくとも、清太と節子は自由だった。
マルクスは根本的な正しさを求めた。当時の権威たる国と王、教会と神学、社会主義と経済学を、生活の糧を失うことを恐れずに批判した。そこに残ったのは、ただ正しさだけだった。ばかな生き方と言われるかもしれないし、そんな英雄的な生き方を誰もができるわけではないが、清冽さ・凄烈さに人は惹かれる。残るのはそういったものである。

マサチューセッツ大学アマースト校経済学部准教授 吉原直毅(よしはら・なおき)
人類文明と地球環境のサステイナビリティ問題に直面している現代において、マルクスを読む意義の1つは、市場制度と資本制経済システムを概念的に区別する視座を学ぶことであろう。市場的交換行為や社会的分業の生成は有史以来の観察事象であるが、市場原理が共同体的原理に優越して社会システムの一元的な支配的原理になるのは、資本制的社会のみである。近代リベラル思想や新古典派経済学は市場と資本制を同一視する事で、市場的交換行為や社会的分業の普遍性を資本制経済システムの普遍性へと錯視する理論体系を構成し、それが現代社会の支配的イデオロギーと化している。しかしマルクスに学ぶことによって、資本制的社会が歴史的な存在に過ぎず、現代の我々が囚われている認識や思考法自体が資本制下の固有な特性に過ぎないと再確認できる。それは現代世界の極端に進行した貧富の格差や、搾取および社会的・経済的抑圧、サステイナビリティ問題などの危機的事象に対しても、我々をして悲観主義に陥ることなく究極的には楽観主義的であり続けさせる知的源泉である。